晴れた日の東京湾。
羽田沖の東京湾で釣りをしていると、頭のすぐ上を旅客機が通り過ぎているような錯覚を覚える。
何しろ発着便数は世界有数の巨大空港だからだ。空港を拡張してみたが需要にはまだまだ追い付かないらしい。そんな羽田空港の周りは、マンションなどの高層ビル群や工場や倉庫が立ち並んでいる。
その様子から多くの人は、東京湾に無機質な印象を持ってしまう。だが、東京湾に面する羽田の沖合は立派な漁場だった。 昔は都市部から排出される生活用水などで、海が汚染されてしまい魚がいなくなっていた。だが、人々の弛まぬ努力の御陰で、水質の改善が進んでいった。近年では魚も戻ってきており、江戸前漁師の仕事場として復活しているのだ。
「今は魚がいっぱい居るよ。 俺たちにとっちゃあ、東京湾さまさまだよ」
そう言って東京湾で漁を営む漁師たちは笑っていた。
そんなある日、漁師の一人が手慣れた手つきでアナゴの仕掛けを引き上げていた。海からは次々と筒状の仕掛けが上がって来る。 ここ数日の天候は快晴。過ごしやすい日が続いていた。(海も荒れて無かったし、今日は大量になるかもしれんな……)
そんな事を考えながら次々と上がって来る仕掛けを眺めていた。照り付ける太陽とささやかな海風が漁師の気分をほぐしいく。
昔はロープに結んだ仕掛けを手作業で引き上げていたが、今は船に設置したモーターでロープを引き上げている。(まったく…… いい時代になったもんだ……)
漁師は漁が終ったら馴染みの店に行って、カラオケでも歌おうかと鼻歌を口ずさみだした。
すると、何個かの仕掛けを上げ終わったところで、引き上げ用のモーターが異音を発し始めた。仕掛け用のロープに多大な荷重がかけられているのだ。「ん?」
漁師は怪訝な顔をした。仕掛け自体は重いものでは無いし、掛かった獲物が大きいと言っても限度がある。
アナゴ以外の物を引っ掛けてしまったのは明白だ。「アチャー。 また粗大ゴミでも引っ掛けてしまったか……」
昨日も小型冷蔵庫を引き上げたばかりだった。
「……ったく、ゴミ代くらいケチケチすんなよ……」
今の日本ではゴミを捨てるのにもお金がかかる。少しでも節約したい人はどこかの空き地や川などに投げ込んでしまうのだ。
もちろん、不法行為で非常に迷惑な話だが、他人の迷惑など省みない人はどこにでもいるものだ。 そして、羽田沖には多摩川の河口がある。そこには、上流で不法投棄された粗大ごみが流れ込んで来る事が良く有るのだった。 その手の粗大ごみは漁具を傷めてしまう元凶だ。しかも、損害賠償を請求しようにも相手が分からないと来る。 結局、漁師たちが泣き寝入りさせられる。不法投棄の問題は漁師たちの悩みの種だった。「勘弁してくれよ……」
モーターが引き上げるにつれ毛布のようなモノが浮かんでくるのが見えて来た。
「あんな大きな毛布を捨てやがって……」
しかし、粗大ごみだからといって再び海に捨てる訳にはいかない。拾ってしまった自分が処分せねば、他の漁師に迷惑がかかってしまう。それも嫌なので回収して漁協に処分を依頼しなければならないのだ。
「手間ばかりかかりやがる……」
漁師は最初は毛布か何かのゴミだと思っていた。しかし、海面に出て来た時には、それは違う物だと悟った。
「あぁぁー。 コリャ違うな……」
漁師はぱっと見でソレが何なのか理解した。毛布と見えたのは冬用のシャツだったのだ。
「ど座衛門か……」
沈んでいたという事は、死んでからそんなに時間が経っていないのであろう。死体は体内で腐乱ガスが発生しやすいので、三日ほどで浮かんで来るものだからだ。
「前に見た奴は浮かんでたから邪魔にならなかったんだがなあ……」
漁師は沖合で浮かんでいる水死体を見た事があるようだ。
「ナンマンダブ、ナンマンダブ……」
うろ覚えの簡単なお経を唱えながら漁師は面倒な事になってしまったと思った。警察の事情聴取などで半日潰れてしまうからだ。
しかし、彼らも仕事なのだから恨んでも仕方が無い。「まあ、しょうがないよね……」
それでも、放っておくわけにもいかず死体をロープで固定した。こうして置かないと、また沈んだり流されるてしまうと厄介だからだ。
漁師たちの間では、水死体を粗末に扱うと罰が当たると伝えられている。「縁があって自分の船を頼って来たんだ。 そう言う仏を弔ってやるのが海の男ってもんさ」
家業を継いだ時に父親から繰り返し注意されたものだ。
「いやいや、頼りにされるばっかりじゃ不公平じゃねぇかよ」
誰が聞いている訳でも無いのに、そんな独り言を呟いた。ロープの固定が終った漁師は次の作業を始めた。
「仕掛けはいったん沈めておくか……」
事情聴取の煩雑さを思い浮かべながら、漁師は苦労して上げた仕掛けを再び沈め始めた。漁師は過去にも水死体を引き上げた事があり、その時には警察のしつこさに辟易したのを今でも覚えている。
しかし、時間を取られて出荷作業が出来ないのは仕方が無い事でも、放っておくと折角のアナゴが死んでしまう。それは生活に直結して来る問題なので切実だった。
だから、引き上げた仕掛けをそのまま海に戻す事にしたのだ。
「まあ明日、上げれば良いか……」
漁師はため息をついた。そして、全ての準備が整ってから水上警察へと連絡を入れたのだった。
水上警察署の遺体安置室。 安置室と言っても病院などにある部屋と違って、倉庫の一角なのかと見間違うような場所だ。地か駐車場の片隅にある倉庫のような場所だった。 そこに若い刑事と見た目くたびれた中年男がやって来た。「これが羽田沖で発見された御遺体ですね?」 男はステンレス製の運搬台の上に乗っていた遺体に手を合わせた。 男の名前は先島秀俊(さきしまひでとし)。先島は公安警察所属の刑事だった。 刑事と言っても一般の警察署に所属する刑事とは違っている。市民生活の治安を守るのが警察なら、国家の安全を守るのが公安の仕事だ。 日本に諜報機関が存在しないため、公安警察がその代行をしているようなものだ。 そして、先島は国家に害する人物の調査などを行う公安所属の刑事だ。「はい、名前は百ノ古巌(モモノコイワオ)五十六歳・男性・独身。 職業は小説家となっています」 若い刑事は担当者だったらしく、手に持ったメモ帳を見ながら答えていた。 最初、水上警察は事件性を疑っていた。だが、多摩川の河口付近に百ノ古のショルダーバックが落ちており、中に入っていた運転免許証から本人と断定出来た。 そして、百ノ古の行動を追いかけてみた所。当日に百ノ古は終始単独で行動しており、事件性が皆無であった事が判明したのだ。 恐らくは誤って川に転落した事故死であろうと警察は結論付けていた。何しろ争った形跡も無く、微量ながらもアルコールが検出された為だった。「本人は社会派作家を気取っていたようです」 担当者は疲れているのかため息が多かった。様々な事件を扱っている部署なので忙しいのであろう。「その方が飲み屋のお姉ちゃんにモテルみたいですからねぇ……」 そんな事をメモ帳を見ながら言っている。行きつけの店にも聞き込みに言っていたようだった。「まあ、実態は掴んだ情報を記事にしない代わりに、調査協力費を脅し取るゴロツキのライターですね」 事件を担当していた刑事はため息をつきながら言った。「それに恐喝や詐欺などで前科があります。 まあ、そこらにいる胡散臭いルポライターの手合いですよ」 どうやら担当者はマスコミを毛嫌いしているらしい。何しろ自分たちの都合でしか報道しないので信用できないのであろう。「今は、群馬県で起きた交通事故を調べていたらしいんですがね……」 先島は年の明けた辺りで起きた自
「気になったので付近の防犯カメラを調べたのですが、被害者は駅前で飲んだ後で一人で帰宅しているんです」 作家の事件当日の足取りは、独りで駅前の立ち飲み屋で飲んだ後、東京と神奈川の県境にかかる橋に向かっている。その様子を防犯カメラが写していた。しこたま飲んだらしく千鳥足であったのも確認済みだ。「鑑識が橋を調べたり、遺体を調べたりしましたが争った形跡が何処にも無かったので事故であろうと……」 橋から転落する様子は写ってはいない。だが、橋の欄干付近に嘔吐物があり、酩酊の末に橋から落下して死亡した物と結論付けたのだった。「そうですか……」 そんな報告を聞き流しながら、先島はチョウの携帯番号を眺めていた。「コイツは北安共和国の工作員でしてね……」 先島は担当刑事にそう告げた。担当刑事も静かに頷いた。「ええ、ひょっとしたら事故に見せかけて殺した……という線もあるかもと疑ったのですが、事故として片付けられてしまったので」 作家の水死と工作員の関連性は不明だ。だが、偶然など信じない先島はチョウの足取りを追う事にした。「今度こそ尻尾を掴んで見せる……」 かつて苦い思いをチョウにさせられた先島はそう呟いた。 先島はチョウの確保まであと一歩と言う所まで追い詰めた事が有る。 その時は覚せい剤の取引現場を抑える予定で乗り込んだ。しかし、警察上層部の裏切り者の密告によりチョウを取り逃がした。そして、現場では罠に嵌められた同僚や部下を失ってしまっているのだ。 余りの怒りに我を忘れた先島は、署内の会議室で裏切り者と対峙した際に相手を射殺してしまった。 その事を咎められた先島は警察に留置されたが、警察内部の手酷い汚点の発覚を恐れた上層部が事件をもみ消した。 釈放された先島は公安警察を追い払われて、国家保安室と言う実態も曖昧な組織に移動させられた。つまり、国家の監視下に置かれているのだ。 先島は捜査の途中で家族を交通事故で失っている。失う者が無い先島にとって、警察や国家の思惑などどうでも良い事だ。 何しろ国家の暗闇を熟知している先島は爆弾のような物だ。自由にさせると何をしでかすか分からない。警察の上層部は身分を刑事のままにして首輪を嵌めらる事にしたのだ。(狂犬でも飼い犬のままの方が使い勝手が良いのか……) それでも先島は公安を離れる気は無かった。同僚や部下の敵を
東京都内にある工場。 工場の入り口に黒い乗用車がやって来た。窓は黒いスモークで塞がれていて中を伺い知る事が出来ない。 車を乱暴に停車させスライドドアが開かれると、中から男二人が女子高生と思われる制服姿の女の子を引きずり下ろした。 女の子は目隠しをされ後ろ手に縛られているようだ。「ここは大丈夫なのか?」 女の子を抱える様に降ろして来た男が尋ねた。 工場の事を言っているらしい。「先週、不渡りを出して差し押さえになっているから誰も居ないんだよ」 運転手がドアを絞めながら答えていた。中途半端な金髪を揺らしながら笑っている。「へへへっ、動画を取って置けば良い小遣い稼ぎになるんだぜ」 車から続いて降りて来た、水色のジャンパーを着た男が薄ら笑いを浮かべながら言っている。「うへへ、今度は先にやらしてくれよな」 女の子を抱える男に言っている。どうやら彼がリーダーのようだ。「お前は直ぐに終わるからダメダメ」 リーダー格の男は首を振りながらダメ出しをしていた。「な、なんだよー」 男たちは下卑た笑いを上げながら工場内に入って来た。 だが、先に工場内に入った金髪の男がいきなり立ち止まっていた。「なんだ?」 リーダーの男が訝しげに尋ねた。「お、おいっ……」 水色のジャンパーを着た男が顎で工場内を示した。ぴちゃん…… 水が落ちる音が聞こえる。明り取りの天井窓から太陽光が差し込んで来ている。薄い靄がかかる空気に差し込む光はスポットライトのようだった。 その強い光芒の中に一人の少女が佇んでいた。「……」 少女は何も言わずに立っている。(女の子……なのか?) リーダーの男がふとそう思った。何故に少女と思ったのか? 小柄な体を黒い外套で包み、その裾元からはすらりとした素足が伸びている。 表情はフードに隠れて見えないが、長い黒髪が襟元から垂れているのが見えていたからだ。「なんだっ! てめぇわっ!」 リーダー格の男が大声を出した。羽交い締めしている女の子はビクッと震えた。 しかし、大声の割にイントネーションが妙だ。急に現れた少女に狼狽しているようだった。「私が誰だろうと貴方たちには関係ないわ……」 その少女は動じることなく答えた。「そうね…… でも、人からはクーカと呼ばれているわね……」 しかし、彼女は何故か名乗って来た。「その
男たちの慌てぶりと、拘束されている女の子の様子から察したのであろう。クーカと名乗る少女は男たちのくだらない企みに気付いたようだ。「おめえに関係無いと言ってるだろうがっ!」 大声をだしているが時々引っくり返っている。普通の女の子ならば見知らぬ男の集団には警戒心を持つものだ。ところが、目の前の少女は動じる気配すら無い。 その不気味さに異質さを感じ取っているのだろう。「群れの中なら安心出来るの?」 そんな事を言いながらクーカは一歩進み出て来た。「……」 妙な質問をする少女に、男たちは黙りお互いに視線を交わしていた。この異様な存在に戸惑っているようだ。「それとも強くなったような気がするの?」 黙っている男たちにクーカはまた一歩足を進めた。「……」 すると男たちは腰のポケットから折り畳みナイフを取り出した。クーカの外見から虚勢が通じると舐めてかかっているようだった。「自分が弱いと認めるのが嫌なのね……」 男たちが取り出したナイフを気にする素振りも見せずため息交じりに呟いた。「ぶっ殺してやる……」 男たちの誰かが呟いた。右側に金髪、左側に水色のジャンパーの男。囲んで脅せばどうにかなると考えたらしい。 するとクーカの外套の裾から何かキラリと光る物が顔を覗かせた。ナイフだ。しかも大きいサイズのようだ。 そう、クーカはククリナイフを取り出したのだ。 だが、それは普通のナイフと違っていた。全体が『く』の字に曲がっている独特の形状を持ったナイフだ。振り回した時に遠心力が働き、僅かな力で相手を切り裂く事が出来る。近接戦闘で絶大な威力を発揮するナイフと言われている。 クーカが近接戦闘で好んで使うもののようだ。「そんな軟な男に用は無いわ……」 黒い影がすっと動いた。「あぐっ!」 次の瞬間には右隣りの男が腕を抱えてうずくまった。彼が持っていたナイフは腕ごと切り落とされていたのだ。 クーカはすぐさま身体を低く落とすと、左隣の男のアキレス腱を切った。腕は関節を狙えば切り落とせるが、足はそうは巧く切れ無いからだ。 そのまま続けざまに右の男のアキレス腱を切っていた。「ぐわっ!」「ああああああああ!」 男二人は激痛のあまり絶叫しながらのた打ち回っている。 クーカはそんな事には目もくれずに体制を立て直してリーダーの男の前に立った。「くそっ!」
「そんな根性があるのなら…… 次はちゃんと殺してあげるわ……」 クーカはリーダーの男に微笑んだ口元で答えた。しかし、微笑みかけられた男は俯いてしまった。 やっと、格の違いに気が付いたのだ。 その様子を見たクーカは戦意は無くなったものと判断したらしい。拘束された少女の元にやってきて助け起こした。「今、自由にしてあげる…… でも、目を開けないで数を十程数えてね?」 クーカは少女にそう呟きながら、拘束されている娘のロープをナイフで切ってあげた。「……」 少女は黙って何度も頷いた。「……きゅう……じゅう」 十を数え終えた少女が目を開けるとそこら中に腕や足を散らかした誘拐犯が転がっていた。もちろん、自分を助けてくれた少女の姿は何処にも無かった。 少女は血塗れになった工場から素足のままで逃げ出した。「た…… 助けて……」 そこを通りがかったタクシーの運転手に保護されて、警察が呼ばれたのであった。「男の…… 被害者から証言は取れたのか?」 刑事たちは幾つかの血痕後を検分しながら聞いた。「男たちの方は出血が激しく重体の為、まだ証言は取れていません」 手帳に書かれたメモ書きを見ながら、ひとりの刑事が答えていた。「女の子の方は、帰宅途中にいきなり車に連れ込まれたと証言してます」 救急車で病院に連れていかれる最中に簡単な尋問を受けていた。「最近、ここいらで発生している連続婦女暴行グループのやり口に似てますね」「しかし、連中は鋭利な刃物で切り刻まれている……と、やったのは誰なんだ?」「被害者の女の子は一緒に居たんだろ?」「声とか聞いていたんじゃないか?」 工場内にいる刑事たちは口々に疑問を口にしていた。「いいえ、彼女は男たちを襲撃した人物への質問となると固く口を閉ざしてしまいます」 少女への聞き取りをしていた婦人警官は答えた。「自分は目を瞑っていたので、何も覚えていない……その一点張りですね」 婦人警官はため息を付いた。「庇っているんだろうなあ……」「はあ。 まあ、自分を助けてくれた恩人ですからね……」 恐らくは満足な証言が取れそうに無さそうだ。未成年なので無理な尋問も出来ない。状況から見ても彼女の被害を未然に防いでくれたのは確かだ。「工場の防犯カメラはどうだ?」 刑事の一人が壁際にあるカメラを指差しながら言った。「駄目で
保安室の事務所。 その事務所は都内の雑居ビルに設けられていた。 名目上は公安警察の組織だが、内閣府の国家公安委員会から直接命令を受けて動く。 正式名称は国家保障安全室だ。 もっとも、公安警察内部でも島流し部署と言われる事が多く、所属する人物も一癖も二癖もある者ばかりだった。 保安室には室長の田上哲也(たのうえてつや)をトップにして全部で八名の人間がいる。 ボンヤリとした部署名から分かる通り、元に居た組織からはじき出された人物たちが勤務している。元の組織では色々とやらかしているので扱いにくい、かと言って世間に放して好き勝手やられても困るので宛がわれているのだろう。 ここでは、日本の安全保障に対しての脅威となる人物団体などの情報収集が主な任務の部署だ。 よその国ではCIAを始めとする諜報機関が担うべき任務だが、何故か日本には存在していない事になっている。そこで公安警察や保安室が業務に当たっているような感じだ。 その活動内容から目立った建物では色々と不味く。マスコミの目を避けるためにも雑居ビルが使われていた。 事務所自体はビルのワンフロアを借り切っているので人数の割に大きい部類だ。 片側の壁にはびっしりと大型ディスプレイが設置され、要注意人物とマークされた者の行動が表示されていた。 その保安室の構成員である先島は古参に属する部類だ。 先島は百ノ古巌(モモノコイワオ)の手帳を眺めていた。先日水死体で発見された人物だ。「お前は何をしに舞い戻って来たんだ……?」 チョウの電話番号を指先で弾いてから手帳をパタンと畳んだ。他に何か無いかと鞄の中を漁ってみたが空振りだった。(また、武器取引でも始めているのか?) かつての取引に使われていた番号。その番号の移動記録を元に追跡調査を行い、あと一歩の所で取り逃がした経験を思い出していた。(狡猾なアイツが危険を冒すとは思えないんだがな……) それが活性化したという事は、チョウは再び取引を行おうとしているに違いないと踏んでいた。だが、同じ番号を使い意味がわからなかった。監視対象にされているのはチョウも気が付いているはずだ。(それとも何かの罠なのか……) しかし、それが何なのかさっぱり分からない。 先島は室長にチョウの調査を具申していた。組織に属している以上は好き勝手は出来ない。「まず、チョウと同
「奴の所属していた北安共和国の諜報機関は、個人それぞれが独立して動いています」 画面はチョウのプロフィールが映し出されていた。「その中でもチョウは高額の取引を行ない、共和国への献上額が大きいので優先的に便宜を図られていたようですね……」 先島は自分が覚えているチョウのプロフィールを幾つか言った。「共産主義者得意の末端組織の細分化って奴か……」「一人が逮捕されても芋づる式に検挙されないようにする為ですね」 室員たちが口々に話していた。「奴の取引の得意先は何処なんだ?」 室長が先島に質問して来た。チョウを追いかけていた先島が一番詳しいと考えたからだ。 画面はチョウが関連していると思われる一覧に切り替わっていた。「暴力組織や過激派、中には宗教団体もありましたね」 元々、チョウは武器のブローカー。世界中の紛争地に武器を配給している死の商人だ。 その伝手で様々な非合法の物を日本に持ち込んでは売りさばいていたのだ。しかも、自分の足跡を残さずにやってしまうので尻尾を掴ませないのも有名だった。「ああ、あの毒ガスを使ってた宗教団体……」 沖川みきが呟く。彼女が保安室に配属された時に、友人が毒ガス散布に巻き込まれて死んだと言っていたのを思い出した。。「ええ、検挙される前に宗教団体の代表は交通事故に遭って死にましたがね。 状況から見て私は暗殺されたと考えてます」 藤井がそう言って振り返ると、何故か先島が俯いて頭を掻いている。他の何人かの室員たちもそっぽを向いていた。彼らが何がしかに深くかかわっている感じを受けたのだった。「動きのある過激派や暴力団の情報を貰って来た」 翌日、室長が公安からの情報を携えて室内に入って来た。「三つの監視チームを編成してチョウの足取りを追う事にする……」 室長は動きが監視対象を3つに絞り込んで監視するつもりだ。それから一つにして検挙を行うのだろう。「宮田と加山はヒコマル派を担当しろ」 ヒコマル派は1970年代安保闘争で有名になった組織だ。日本各地の交番や銃砲店を襲って何人も死傷者を出していた。しかし、余りの過激さに学生たちからそっぽを向かれて組織自体は衰退している。だが、今でも生き残っている幹部たちは武装闘争の夢を諦めないでいるらしかった。 幹部の一人が北欧で北安共和国の重要人物と接触していたらしい。「久保田と
乗用車の中。 関東右山組の駐車場を見張っている先島と青木。狭い車内で時々体制を変えながら目を光らせている。「監視チームの部屋を貸してもらえると助かるんですがねぇ……」 朝から何度目かのボヤキを青木が言った。 二人は挨拶には向かったのだが、けんもほろろに追い払われてしまった。「それにして、あんなに邪険に扱わなくても良いだろうに……」 まだ、ブツブツと文句を言っている。「まあ、あちらさんも事件を横取りされると思ってたんじゃないか?」 そんな青木に苦笑しながら言った。 先島自身、向こうが検挙寸前に待ったをかけた事が何度かあった。潜り込ませた内部通報者を守る為だったが、そんな事情は一切説明はしないので結構恨まれたりしたものだ。「まあ、ミニパトを呼ばれないだけでもめっけもんだよ」 先島が苦笑しながら言った。 公安警察の張り込みだろうと普通乗用車を使うので、知らない人が見ると不審者が停まっているように見える。 以前に別の事件を追いかけていた時。所轄警察の捜査をジャマしてしまったらしく、嫌がらせのようにミニパトに職質された事があった。偶然などを信じない先島はわざとやられたに違いないと踏んでいた。「青木は張り込みには慣れていないのか?」 先島は軽く欠伸をしながら返事をする。「僕はスリーパーを作るのが仕事でしたから……」 スリーパーとは内部通報者だ。普段は何もしないが何か問題が起きそうな時にはこっそりと通報してくるのだ。仲間を裏切るように仕向けるので結構難しい仕事だった。 青木は何度目かのカメラの動作チェックをしている。身体を動かしていないと寝てしまいそうだからだ。「ああ、工作が専門だったのか」 公安警察内部にも色々と部署がある。横の繋がりは無いに等しいので、同じビルに居ても挨拶すらしないのも珍しくは無い。 仲良しこよしの組織では無いので、お互いに不干渉が鉄則なのだ。高度な機密情報を扱うので、全体を掌握する上層部以外は情報を共有しない。「ええ、先島さんも似たような感じでしたでしょ?」 青木が聞いて来た。「ん、俺はもうちょっと汚い方だったな」 先島が少し笑いながら答えた。 先島は内部通報者を育てたり、監視対象が自滅する工作を行ったりしていた。「ははは、五十歩百歩でしょ」 青木はそう言って笑っていた。「自分はですね…… 南安共
「だから大関と鹿目の関係さ。 なんで大関はクーカを使ってまで鹿目を脅したがるんだ?」 チョウを狙撃したのはクーカであろうことは分かっている積もりだ。近所の防犯カメラにクーカらしき人影が映っていた。証拠としては弱いが嫌疑をかけるのには十分だ。「……鹿目が北安共和国との約束を守らないからだ」 渋々という感じで海老沢が語り出した。 鹿目は北安共和国首領用の移植用臓器作成を請け負っていた。だが、違う臓器を渡していたようだ。「なんで鹿目がそんな危ないことやるんだ?」 鹿目は財界の大物だ。配下に一流と言われる会社を幾つも持っている。彼の企業があげる収益から見れば臓器密売などチリにもならない。「人の命運を握るのは魅力的だったんだろう…… たぶん」 確かに一度移植を受けると定期的な検査が必要になる。元の情報を握っている方が立場上有利なのは確かだ。どんなつまらない事でも人の上に立ちたがる人間は居るものだ。「そのデザインされた内臓を培養してある程度大きくなったら、提供された人間に移植して培養していたのさ」「提供された人間?」「北安共和国から提供された人間だ。 彼等は日本人の中で培養された臓器を使うのを嫌がるんだよ」「良く分からん拘りだがね……」 そう言って海老沢は笑った。「鹿野は生体培養を担当して、大関は提供された人間を管理していたんだ」「お前さんの役割は何だ?」「俺は人間を運ぶのが仕事だ。 主に漁船を使ってやっているがね……」 昔は覚せい剤などを沖合で取引する『セドリ』とい手法があった。だが、海上警備や港湾警備の強化で現象していると聞いている。「大関はどう関与してるんだ?」「その話を鹿目に持ちかけたのが大関だったんだよ」 大関はクスリ関係の密輸取引で北安共和国と繋がりがあったらしいと公安のファイルにはあった。「もっとも奴の目的は別だったけどな」「別?」「自分のクローンを鹿目に作らせようとしてるんだよ」「権力を待った人間なんてみんな一緒さ。 来世救済を信者に解く癖に自分は死にたくないんだとさ」「笑っちまうよな……」 海老沢はクックックと押し殺したように笑っている。余程面白かったのだろう。身体が震えているようだ。「ところがだ…… その検体に致命的な不具合が見つかったんだよ」 ひと通り笑い終わった海老沢は話を続けた。「人を食いつぶ
海老沢邸 先島は車の中で鼻をぐずぐずさせていた。さあ、海老沢邸に乗り込もうとした途端に、いきなり大きなくしゃみをしてしまったのだ。(風邪でも引いたかな……) 何だか出鼻をくじかれた思いだった。(今日は正面から訪問するか……) 前回に海老沢に会いに来た時には、クーカに狙われて助かった理由が知りたかっただけだった。 だが、色々な事情を探る内にクーカの戦闘に対する考え方が分かって来た。彼女は自分に敵対する意思の無い者には、攻撃をしないのだと確信していた。 それは彼女自身の強さに起因しているのだろう。 クーカの詳細な人物リポートを読むと、クスリで強化された兵士である事がハッキリと書かれている。それまでは噂で伝聞される類いの物だけだった。強さに裏打ちされた自信。彼女が史上最強の暗殺者と呼ばれる所以であろう。(まあ、実際にあのジャンプを見ると納得出来るものが有るよな……) 何度も驚異的な跳躍力を目の当たりにすると、納得できるものがあったのだ。 今回の海老沢への訪問は、大関と鹿目の関係を探るのが目的だ。クーカが二度も来たのには理由があると考えていたのだ。 先島は門を潜り抜け玄関の呼び鈴を鳴らさずに屋敷内に入っていく。すると居間に海老沢が居た。「……少しくらいは礼節を弁えたらどうなんだ?」 海老沢は憮然として言い放った。元々、警察嫌いだし公安は輪をかけて嫌いなのだ。「やあ、聞きたい事があって来たんだ」 そんな問いかけを無視して、先島が張り付けたような笑顔で語り掛けた。「普通は門の所にあるインターホンで用件を言うもんだろう」 先島が門を潜り抜けた辺りから気が付いていたらしい。海老沢の御付きの者たちは下がらせているようだ。揉めるのが嫌だと見える。「大関と鹿目の関係が知りたくてな……」 先島は海老沢の恫喝など気にせずに言い放った。「当人たちに聞けば良いんじゃないのか?」 海老沢としても余り関わり合いになりたくは無い様だ。クーカに関わったばかりに部下を八名ほど失っている。後処理が非常に面倒だったのだ。「どっちも宗教界と財界の大物だ。 木っ端役人なんか相手してくれるわけないだろう?」 先島は少し肩を竦めながら返事をした。「教えるにしても俺には何のメリットもねぇじゃねぇか」 海老沢が吐き捨てる様に言って来た。その木っ端役人は自分の所なら気
夜の保安室。 広いフロアーに藤井あずさは独りで黙々と作業をしていた。藤井は室長に頼まれた資料を作っているのだ。 無人のフロアーに藤井の操作するキーボードの音と、プリンターが資料を吐き出す音だけが響いている。 他の室員たちは帰宅してしまっているか、夜間の監視作業に向かっている。 緊急事態に対処する為に、正規の職員が二十四時間待機しなければ決まりなのだ。もっとも、名目上なので人手不足の今は臨時雇いの人が行っている事が多い。 藤井が作業を行っていると頬に風を受けたような感じがした。団扇をそっと撫でるように扇ぐやり方に似ている。「?」 藤井が振り返った。しかし、フロアーは自分の机以外には照明は当たっていないので良く分からなかった。 ちょっと背中に寒いものを感じた藤井は疲れているのだと思い込むことにした。(一息入れようかしら……) 作業もまとめの段階に入っているので、あと三十分もあれば終了するだろう。そう見積もった藤井は給湯室に向かった。「……」 向かう途中でも気になったのか振り返った。やはり、誰もいない。ため息を付いて正面を向いた時に、暗がりの中に何かの気配を感じた。 「誰っ?」 藤井が声を掛けると、暗闇の中から見慣れた外套が歩み出て来た。クーカだった。「ひっ、一声かけてよ……」 藤井が怯えた様子で言った。だが、見知った顔を見て安心出来たのもあった。「こ、これから声を掛けるとこだったのよ……」 実はクーカの方が焦っていたのだ。無人だと思い込んでいたので、誰かが居た事が想定外だったのだ。(……ヨ・ハ・ン・セ・ン~~) ヨハンセンの話では保安室を観察した結果。深夜近くにはフロアーが無人に近い状態になると言っていたのだ。宿直の人間は警備室に詰めるとも聞いていた。「コーヒー飲む? インスタントだけど……」 こんな夜半になんの用だろうと疑問に思ったが、後で確かめる事にした。質問もあるので丁度良かったのだ。「ブラックでお願い……」 クーカは藤井の反応に少し戸惑ってしまった。不法侵入なのでひと揉めしてしまうかもしれないと身構えていたのだ。「そう言えば、先島さんが私と連絡が取れるようにすると言ってたけど?」 藤井がまず質問をぶつけて来た。以前に先島からクーカとの連絡係にされた事を不意に思い出したのだ。 すると、クーカは手にしている携
保安室が入居しているビル。 保安室は警備会社が入っているビルのワンフロアを借り受けていた。もちろん、偽装の為だった。 その屋上にクーカは居た。耳にはイヤフォンを装着している。連れていかれた時に盗聴器を設置して来たのだ。「……」 クーカは自分の境遇が話されているのを聞いていた。「バレちゃったか……」 クーカは猊下に見える車の列を見ながら呟いた。自分の正体が判明するのは、時間の問題だとは思っていたのだ。むしろ時間が掛かっているなと考えていたくらいだ。 クーカの家族にはある秘密が秘められていた。一族には臓器移植で発生する拒絶反応を促す因子が存在しないのだ。 望めば誰でも臓器移植の移植が可能という事になる。拒絶反応が起きないので安全なのだ。 鹿目が持っていると思われる臓器も目標の一つだ。あろう事か鹿目はDNAを解析して他の細胞に組み込もうとしている。それはクーカには耐えがたい物だった。 いずれは、この秘密もいずれはバレてしまうだろう。そうなると違う問題が出て来るが、それはそれで考えれば良い。(どちらにしろ私の家族を返してもらうわ……) クーカは改めて誓った。他に生きる目的が無いからだ。 一族の特性が何故か判明してしまい、クーカの両親は解体されて世界中の要人に移植されてしまったのだった。 ロス・セパスタの幹部を射殺しようとする時に、当の幹部に言われたのだ。最初は自分の事だとは分からなかったが、襲撃チームの担当官がその事に気が付いたのだった。 彼はクーカを庇って重傷を負ってしまい、本国で植物状態のままだと聞いている。見舞いに行きたいが軍にも諜報機関にも裏切り者とされてしまっている。 両親の行く末を知ったクーカは、自分の家族の為に生き抜く事にしたのだった。(私は私…… 他の者にはなれない……) 室内の話声が途絶えたので、自分の目的も分かってしまったのだろう。 その上で彼らがどう出るのかを考えなければならない。(これから、どうしようかな……) 先島の部屋への訪問がやりづらくなってしまったなとは思っている。憐みの目で見られるのが堪らなく嫌だったのだ。それだったら敵意の満ちた眼で見られる方がマシだとさえ考えている。 クーカが屋上でため息を付いているとヨハンセンが姿を現した。『で…… どうしますか?』 ヨハンセンが聞いて来た。彼はクーカ
「クーカは自分の両親を取り戻そうとしているんだ……」 先島が吐き捨てる様に言った。 人間の業の深さには慣れているつもりだったが、深淵にはまだ届いていないようだ。「……」 全員が黙ってしまった。彼女の過酷な運命を思いやっていたのだ。「そう言う事だったのか……」 室長は先進国の諜報機関が躍起になっている割に口が重い訳が解った気がした。自国の重要人物が移植を受けているせいなのだろう。 それは余りにも後ろめたい理由なので、クーカの抹殺を図り口封じを目論んでいるのだ。「普段、あれだけ喧しいラングレーの雀どもが、詳細を話すのを渋る訳だな……」 CIAの連絡員はクーカを見つけたら、手を出さずに連絡だけを寄越せと言ってきた。『QUCAが持っている技術は我々が仕込んだものだ。 彼女の占有権は我々の方にあるんだよ』 連絡員はそうしたり顔で言っていた。 過去に実行させた作戦の数々を暴露されるのを恐れているのもある。それ以上に臓器売買に関わっている節があるのだ。(奴らの非合法活動用の資金集めの為か……) 勿論、室長には従うつもりなど無かった。「しかし、復讐の為とは言え女の子が人を殺めるなんてなあ……」 宮田がまだブチブチ言っていた。先日、クーカに言い負かされたのに懲りない人だ。「男だろうが女だろうが引き金は気にしないよ」 先島がそう言うと室内に居た全員が苦笑いをしていた。それぞれ色々と思う所があるらしかった。「藤井。 CIAが行った最後の作戦の所を見せてくれ」 先島はクーカが関与したと思われる麻薬組織壊滅作戦概要を表示させた。 作戦対象はエバジュラム国のロス・セパスタ。当時は最大の勢力を誇っていた麻薬密売組織。 彼らは麻薬密売・人身売買・銃器取引・臓器売買など非合法な組織犯罪集団であった。米国への麻薬配給の主力と考えられていた。 結成したのはメキシコ人の元軍人でオシム・カルデナス・ガリェン。エバジュラム国の犯罪組織ブムーフ・カルテルの傭兵部隊として、特殊部隊の兵士を集めたことが起源だった。 結成当時、エバジュラム国内では犯罪カルテルは壮絶な縄張り争いを繰り広げていた。身の危険を感じたブムーフ・カルテル幹部は、自身のボディガードとして退役したメキシコ兵を高給で雇い入れたのだ。 元軍人を雇い入れたブムーフ・カルテルは勢力を伸ばしたが、途中でオ
保安室。 室長が部屋に入って来た。「全員集まってくれ、クーカに関する新しい資料を手に入れた」 室長がCIAからクーカに関する資料を持ち帰って来た。どうやって手に入れたのかは謎だった。「資料によると彼女の本名は榊原美優菜(さかきばらみゆな)。 年齢は16歳。 学校には通った記録はない」 何時ぞやCIAが寄越した黒塗りの資料では無く、名前も全て表示されている資料だった。そこには家族構成も出身地も掛かれていたのだ。「ちょっと待ってください…… 日系人では無くて日本人なんですか?」 先島はクーカの本名を聞いた時に思わず口から出てしまっていた。そんな気はしていたが、てっきり中国人だと思い込んでいた。「はい。 彼女が幼い頃に両親と共に中米エバジュラムに出国しています」 藤井が話を引き継いだ。 エバジュラム国では陸軍が派閥化しており、無政府状態に近い国だ。外務省はレベル3の渡航中止勧告を指定している。目的であれ渡航は延期するように求めるものだ。「何故だ? あそこは独裁国家だろ?」 加山が聞いて来た。彼は米軍と合同演習をした際にエバジュラム国の隣国に行ったことがあるらしい。そこでジャングル戦の訓練をうけたのあそうだ。「国際農業事業団の招きで、一家は農業指導に向かったらしいです」 団体の詳細な報告書が載せられている。彼等はエバジュラム国の民間団体だ。 つまり国ではなく民間団体からの招きで向かったようだ。自国の食料自給をどうにかしたいと願った市民団体だと思われる。犯罪組織とのつながりは無さそうだった。 続いて画面には空港からと思われる地図が表示されていた。「しかし、榊原一家は空港からホテルに向かう途中で行方不明になってますね……」 次に表示された画像には空港の防犯カメラに移された一家が映っていた。両親と小さな女の子が一緒に映っている。 その女の子が幼い日のクーカだと推測された。「誘拐されたのか?」 中米や南米は治安が極端に悪い。僅かな小銭目的に誘拐事件などが頻発していた。 しかし、狙われるのは現地に工場などを進出させている企業幹部やその家族だ。「いいえ、大使館にも事業団にも身代金が請求された形跡はありません」 大使館からの事故事件の報告書が画面に表示された。そこには行方不明とだけ書かれていた。「強盗?」 手間のかかる誘拐では無く強
夜中過ぎに雨が降って来た。その雨音でクーカは目を覚ましてしまった。(え? ここは何処だっけ………) そこまで考えた時に先島の部屋に来ていたのを思い出した。(しまった……) 目が覚めたクーカは素早く周りを見渡した。傍には誰も居ない。自分は一人でソファーで寝ていた所だった。 先島の方を見ると椅子にもたれ掛かったまま寝ている。傍には空の酒瓶が見える。酩酊したまま寝てしまったのを思い出した。 安心したクーカは雨を見詰めていた。(あの時も雨が降っていたな……) 幼い日。両親がいきなりクーカを起こしグズル自分を建物の外に追い出した。 訳も分からずにドアに縋ったが、室内からいきなり男の怒鳴り声と父親の怒鳴り声が聞こえ始めた。 怯えた彼女はゴミ箱の中に隠れてやり過ごした。しばらくするとぐったりとした両親が抱えられるように、車に運び込まれて行くのを見ていた。 やがて、雨が降って来てビニールシートの切れ端に包まりながら、小声で母の名を呼び続けていたのを覚えている。 翌日から見知らぬ異国での過酷な日々が始まった。面倒を見てくれる人も無く、ゴミ箱から腐った残飯を漁る日々。夜中に星の数を数えながら過ごした日々。言葉が分からず大人たちから怒鳴られ怯える日々。 餓えで死にそうになりフラフラしていたら、見知らぬ女に捕まって施設に放り込まれた。周りには似たような子供ばかりの所だった。 辛い事ばかりだったが、食料と粗末ながらも毛布があったのが有難かった。 愛想を振りまいても冷たくあしらわれるだけなので、何時しか表情が消えていったのもその頃だったと思う。 訓練は辛かったが雨に濡れないのだけは良かった。 優秀な成績を収める事が出来たクーカは、専門の軍事訓練所に入れられる事になった。良く分からない注射を受け続け、何年かすると戦場へと連れまわされるようになっていった。 初めて射撃した相手は少年兵だ。スコープの中に映った少年の目と視線が合ったような気がした。しかし、次の瞬間には彼の頭部の半分は吹き飛んでいった。 その時は何の感情も沸かなかった。そして、今も何も感じる事は無い。(何も無い…… 何も無い…… 私には何も無いんだ……) クーカは生まれた時から何も持ち合わせていなかったのだ。悔しいのは自分でもその事が分かっている事だった。(貴方は何を信じて毎日闘っているの
「それは妻と娘だ……」 クーカは先島をちらりと伺った。「そういえば交通事故で死んだって言ってたわね……」 以前に先島の部屋に着た時に言われたことを思い出した。「ああ……」 先島の口から素っ気ない返事が返って来た。「俺の誕生祝をしようとケーキを買いに行ったんだそうだ」 先島は直接は知らなかった。後で警察で事故の詳細を言われたのだ。「ところが、携帯電話に気を取られたトラックに正面衝突されて…… それでお終いだ……」 先島は台所に行って酒とグラスを持って来た。「そう……」 クーカは大人しく話を聞いていた。「当時の俺は事件の張り込みをしていて、連絡が取れたのは翌々日だった」 写真を見ながら先島は当時を思い出すように話す。「妻のご両親には散々恨み言を言われたよ」 勿論、両親は先島の職業は知っている。知っているだけに怒りの持っていきようが無い感じだ。『君の仕事の事は理解しているつもりだ。 だが、家族を犠牲にしてまで、何を守っているというんだね?』 泣く事も出来ず唖然とする先島に妻の父親が尋ねて来た。先島は何も言い返せないでいた。「…… 何気ない一日の終わりに、お前の家族は居なくなりました…… そんな事を急に言われてもな……」 先島は手にしていたグラスに酒を注ぎ入れている。「俺には理解できなかった」 酒の力を借りないと眠れない日々が始まりだった。「そのトラックの運転手には逢ったの?」 クーカが尋ねた。「ああ、相手の住んで居るマンションに訊ねて行った」 最初の一口を飲み込んだ。「最初は気が付かなかったけど、俺の風貌を見て誰なのか分かったみたいだった」 先島は寝る時以外に酒は飲まない。実は苦手だったのだ。「そのまんまマンションの廊下に土下座して謝りはじめたんだ……」 酒を飲むというより流し込むと言う方が合っている気がするとクーカは思った。「俺は紋切り型の謝罪が聞きたい訳じゃない。 あの日に何があったかを聞きたっかったんだがな……」 謝罪されても被害者は帰って来ない。残された遺族を納得させることが出来るのは真実だけだ。「そしたらさ…… 運転手の幼い息子が部屋から出て来て、両手を広げて俺の前に立ちはだかるんだ……」 先島が両手を広げて見せた。手にしたグラスから酒が零れていった。「パパを虐めるなってね」 自分の家族を奪
先島の自宅。 先島が自宅に帰るとベランダの戸が開いていた。「……」 先島が部屋の中を見回すと、隅にクーカが居た。膝を抱えて座って居る。「ごめんなさい……」 クーカも言い過ぎたと分かっているのだろう。素直に謝って来た。足元を見るとスリッパをちゃんと履いていた。「宮田も済まなかったと言っていた。 許してやってくれ、世の中にはああいうタイプも必要なんだ」 先島は十人居たら十通りの答えが有っても良いと考える方だ。むしろ全員が同じ事を考えていたら、そちらの方が気持ち悪いと感じてしまうたちだ。「もう気にするな…… さて、今夜は何にしようか?」 先島は気持ちを切り替えようと夜のご飯の話を始めた。 誰のせいでも無いのに議論しても無駄だからだ。「お腹空いたーーっ」 クーカが先島の考えを見たかのように返事をした。「ん? ちょっと待ってろ……」 先島は空に近い冷蔵庫から野菜とコロッケを取り出して来た。作るのはコロッケ卵とじだ。「凄いーーっ」 クーカは目を丸くしていた。何も無いに等しい冷蔵庫の中身で先島は料理を作り出したのだ。「ん? どうした?」 出来上がった野菜炒めを皿に盛り付けていた。「ひょっとして料理は苦手なのか?」 そう話しながらフライパンを水洗いをする。料理を作りながら調理器具を片付けるのは常識だ。 しかし、クーカの生い立ちを知っている先島は質問を間違えたと思ってしまった。「したことがありまっせぇーーん」 クーカは人が料理する所まじまじと見たのは初めてだった。クーカのテンションが妙に上がっていた。「しかも、美味しいし!」 先島がよそ見をした隙に野菜を一欠けら口に運んでいた。先島はニコニコしながらコロッケの卵とじを作り始めた。 先島は魔法使いなのかも知れないとクーカは思ったのだった。 料理を食べ終えた二人はデザートのケーキを食べ始める。ひょっとしたらクーカが来るかもしれないと帰りがけに買って来たのだ。「甘いものを食べないと身体が燃料切れ起こしちゃうの……」 クーカが美味しそうに食後のケーキをぱくついていた。確かにクーカの身体能力は群を抜いて凄かった。 代謝機能がずば抜けているので、カロリー消費がもの凄いのだ。だから、カロリーバーなどを常に携帯している。「それで何時も甘い匂いがするのか……」 うっすらと甘い匂いを残し